感想
概要
中動という状態について、言語的な定義や人間の状態、行為から明らかにしようとしている 現代では行動や状態について能動(自発的)、受動(強制)という分け方(対立)が当たり前のようにあるが 実際は、能動でも受動でもない中動という状態があり、昔(古代ギリシア)では当然のように存在していた。また、中動態というのはどういう状態を指すものなのか、言語学、哲学を通して歴史を整理、考察している
感想
文献を頼りにとか、歴史、哲学的な証拠で考察を進めていくのは、都合のいい解釈を並べていってる感じがしてあまり好きになれない。 言葉で人間の意思とか状態を整理するのは、言語で表し得ない(ような気がする)、ことをどうにかしようとしているように感じてしまう。
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直感的には中動態という状態、事態はありそうだが、結構文脈とか、解釈で変わりそうな気もする。状態の存在はわかるが、定義できるのだろうか
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中動態の成り立ちと変遷についておっているが、、言語の体系化は割と時代とまとめた人により変わっていくような気もする、いわゆる方言みたいな、属人性や地域性がありそう
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言語の体系化が古代から行われているのは少し意外だった。哲学の対象にはなりうるのだろうが、動詞や名詞といった概念を組み立てるまでやっているのは驚き
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言語学には特に興味はないが、言語の変遷から動作の捉え方を考察していくのは面白い。名詞から動詞が生じたとされる[p.164 辺り]話など。普段使う言語から知覚する状態が規定され得るものなのだろうか
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中庸とか、人間の性質についてはいわゆるどちらでもない、というものは定義されているが、状態、行為に対する意思みたいなものはあまり、厳密に整理されてないのだな、という感じ